こんばんは!部活、アルバイト、お仕事、家事、育児、介護など皆様お疲れ様です。本日から連休ですのでどこかへ行かれる方も多いのではないでしょうか。私は地元の広島に帰ろうかと思っておりましたが、諸事情ありまして結局今、京都の家にいます。京都市内は20時現在、雨が降っております。雨の音が激しくなってきましてザーザー降りの中、先程帰宅しました。雨の日は何となく気が滅入りますが、ふと音楽が聴きたいなと思い、このブログが終わったら音楽を聴きながら部屋で少々何か撮れたらと思っております。そうなのです。音楽に教えていただいたことも多いなと思い出します。音の世界、詩の世界。音から「こんな景色が浮かぶなあ」ですとか、詩から「このような二人がこうなってこういう感情でいるのだろうなあ」ですとか、想像をすることで自分の胸にあるものを広げていただいたり、音楽を聴くことで自分の感情を整理できたりもしますような。十代の頃は激しい怒りなども音楽で何とかなっておりましたような。今でしたら悲しみや寂しさなども音楽でひと時忘れることもできますような。もう中年で良かったと思うことは41年生きてきまして思い出の曲なども年々増え、耳にすれば「あ」と思う曲も増えたことなどもあります。また子供の頃に「?」と思っていた曲なども今聴けば「おおおお!」と思う曲などもあります。それは成長という中で自分が受け入れるものの幅であるのかなとも思うのですが。ううーん。
子供の頃の自分が続いて大人の今の自分がいるのですが、絶え間なく感情というものを持ち続けていますのに大人の今になり感じる感情、例えば「悲しい」という感情一つにしましても子供の頃の「悲しい」と今の自分の「悲しい」感情は、その理由や内容なども違ってくるなととても思います。その時の自分にとっての物凄いレベルの「悲しい」は「とても悲しい」と表現するとしまして、とても悲しくなる理由や内容はその時々で異なり、しかし、その時に感じる「とても悲しい」という感情はそりゃ「とても悲しい」のでありまして、今から思えば小さい頃はくだらないことでビービー泣いてたなと思うこともありますが、その当時にしてみれば「とても悲しい」ことですので悲しいの大きさは昔と今で変わってくるのかと思えば、どうなのだろうと思います。子供であればその子の人生で初めての「悲しい」という感情を次々に体験してゆくのでして、大人になれば「悲しい」という理由や内容は増えますようで、大人になるまでに「悲しい」感情を数多く体験していることになり少々の耐性はついてゆきますような。結局、それで子供と大人の「悲しい」という感情の大きさはプラスマイナスゼロになるのかということが言いたいのではなく、その時に感じる「悲しい」という感情は日本語では「悲しい」と表現しますが、どの時の「悲しい」にしましても何かの理由があり、その内容もあり、それは他人が「たいしたことじゃない」と言ったとしましても、当人にしましては「悲しい」のでありまして、「悲しい」感情は年齢を重ねる毎に大きくなるのか、小さくなるのか。それは案外、理由や内容はともかく「悲しい」は「悲しい」であり、「とても悲しい」は「とても悲しい」であり、だと思います。また、「悲しい」感情の大きさはその人が子供であるか大人であるかと言いますより、理由や内容にもより、やはりその人の今までに体験した「悲しい」に関わってくるものかもしれません。また、その人の性格なども関わってくるかもしれません。「悲しい」という感情の大きさですが、「悲しい」には長い伏線があったりするかもしれず簡単には他人がその人の「悲しい」の感情をどうにも量れないものかもしれません。例えば「昨日、手袋を失くしてしまった。どこかに落としたかもしれないけれど探しても無かった」という「悲しい」感情ですが、子供でしたら手袋を失くしてもう泣いてしまう程の「悲しい」かもしれません。大人でしても他に多くの悲しみを今までに知ってきているにしましてもやはり手袋を失くして「悲しい」という感情が生まれるかもしれません。もしかしたらその手袋は大事な人からのプレゼントの手袋であったかもしれず、もしかしたら仕事で何年も愛用してきたもうパートナーのような存在の手袋かもしれず。あるいは海外など旅先で一目惚れして購入したのだけれどなかなか今住んでいる土地では見掛けないデザインの手袋であれば、やはり失って「悲しい」という感情が生まれるかもしれず、そうした伏線などでも「手袋を失くした」という「悲しい」感情の大きさも変わってくることだと思います。ええと。つまりは「悲しい」という感情にしましても子供の頃の「悲しい」より大人の「悲しい」の方が理由も内容も多くの人が「そりゃ悲しいよね」と思う内容の「悲しい」であるかもしれませんが、本人にとりましての「悲しい」感情の大きさは、子供の頃にしましても大人になってからにしましても「悲しい」ことであれば「悲しい」のであり、「とても悲しい」ことであれば「とても悲しい」であるのではないかということが言いたいのですが、ううーん。しかし、ですので自分でしたらこれからの先に感情が楽になるかとえいばそうでもないような気もしますし、それではこの先に感情がただ苦しくなってゆくのかといえばそうとも言えないような気もします。一年を通じましても、一日を通じましても感情に波はあると思うのですが、乗り越えなくてはならないような感情の波がウワーッとやってきた時にどう乗り切るのか。乗り越えなくてはならないところでできるなら波が小さくあって欲しいような。しかし、かと言って感情の波が無ければ人はどうなってしまうのだろうとも思います。あまりいい例えではありませんが、悲しいことがあるから喜びはますます喜びとなる、とも思いますし、人の暮らしの中で感情の波があるからこそ人の心は豊かであり、ただ淡々とひたすらに「…」という感情の人はほぼいらっしゃらないでしょうからこそ人は人でありますようにも思います。ええと。だから人は面白い!と思います。
それでは、皆様にとりまして明日以降も良き日となりますように!七川に関わって下さる方に感謝をしております。七川の撮った写真などに関わって下さる方、いいねやフォローをして下さる方に感謝をしております。皆様、心よりお礼申し上げます。ありがとうございます!
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